【看護観】命の時間には限りのあるから、私はいつも優しくありたいと思う

訪問看護師のまおつんです。

 

私は数年のブランクはあったもの、新卒で病棟に入職してから今までずっと看護師として働いてきました。

看護師という仕事は、体力的にかなり辛かったり、人間関係でモヤモヤすることも多い職種です。

いつも悩みは尽きませんが、私にとって看護師は天職だといえます。

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「人の命には限りがあって、だからこそ美しくもあり儚い。」

今回は私の看護観についてお話していこうと思います。

前置きが長くなるので、ゆっくり時間がある時にお読みくださいね。

 

命の時間には限りがあるということ

最近は『人生100年時代』といわれているように、日本人の平均寿命が伸び続けているという現状があります。

そのため、60~70代でも元気な方が非常に多く、一般企業を定年退職をしたあとに人生を謳歌している人もたくさんいらっしゃいます。

 

それはそれでたいへん喜ばしい事ですが、人生には必ず終わりがやってきます。

それがいつになるのかは誰も教えてくれません。

 

私は看護師としてこれまでに何人もの患者さんを看取ってきました。

看護師は人の生死にもっとも近い存在だといえます。

 

「先週までピンピンしていたのに急に亡くなった」

「まだ若かったのに交通事故で亡くなった」

ということも珍しくありません。

 

人の命には限りがあるということ。

看護師の経験から私は人の人生の最期を何度も見てきました。

そんな中で改めて人の命について考えるようになりました。

 

限りがある人生の時間だからこそ、1日1日を大切に生きていくように心がけています。

 

人にはいつも優しくしたいと思う

看護師をやっていると、いろいろな人生の最期に遭遇するというお話をしました。

亡くなる直前の患者さんの中には、最愛の人から優しい言葉をかけてもらったり、家族に見守られながらゆっくり息を引き取るという光景が想像できるのではないでしょうか。

そういう光景ばかりであれば、「看護師冥利に尽きる」と言えるかも知れません。

 

しかし現実はそこまで甘くないかも知れません。

たいへん無念ながらも幸せに最期を迎えられた人ばかりでもありません。

 

「人の人生は本当にいろいろだな。」

看護師の私が言うと、より説得力が増すでしょうか。

病棟であっても訪問看護でも、患者さんが亡くなる直前に話をしたのが私たち看護師というケースもあります。

 

いつ死ぬか分からないからこそ、私は私と関わる全ての人にいつも優しくしてあげたいと思うのです。

仕事で接する患者さんはもちろん、プライベートで関わる人であっても優しい気持ちを持つ意識をしています。

 

しかし、仕事ならともかくプライベートの人間関係においては、私も頭を悩ます事も多いです。

「この人とは合わない。」と感じることもしょっちゅう。

そういう人に対しては優しい気持ちになれないこともあるので、気付かれないようにそっと距離を置くようにしています。

 

性格や価値観が合わない人に対して無理に合わせる必要はありません。

いつも人に優しくするためには、自分の正直な気持ちに向き合うことも大切だと考えています。

 

 

人に優しくすることへのジレンマ

「人に優しく」というと聞こえは良いかも知れませんが、この気持ちに対して自分自身でもジレンマを感じることがあります。

そのジレンマとは、人に優しくすることで自分に返ってくるリターンをひそかに期待してしまうことです。

 

誰かに優しくしたぶん、それが回り回って自分も誰かから優しくされるという見返りを求めてしまいます。

 

時には人に優しくしてあげたのに、その人から感謝の言葉もなかったりするとモヤモヤと思うことがあります。

なぜこのような感情になるかというと、どこかで見返りを期待しているからです。

本来、この優しさは善意であるはずなのに。

 

このような「損得勘定」で考える自分のずる賢さに気付いてしまうと、自分はなんて小さい人間なんだと気分が沈むこともあります。

こういう時って、人に優しくした後になぜか虚しくなります。

そんな感情に何日も振り回されて落ち込むこともしばしば。

 

悩みに悩んだすえ、私はとある結論に至りました。

それは「別にそれでも良いや」ということです。

 

浅はかな考えだと笑われるかも知れませんが、

「自分も誰かに優しくされたい。」

「誰かから大事に思われたい。」

と思うのは人間の自然な欲求です。

それを無理に隠したり、自分を装ったりする必要もありません。

 

それでも私は人に優しくしてあげたいと思っています。

人に優しくすることを「偽善」だといって、なかなか行動できないよりもよっぽどマシなはずです。

 

昨日よりも今日、今日よりも明日へ一歩でも前に進んでいる。

そんな感覚を持ちましょう。

 

行き場のない怒りへの対処

たまにテレビやネットを見ていると、時々行き場のない怒りや悲しみを伝えるニュースが報道されています。

「子供に食事も水も与えずに餓死させた。」

「飲酒運転の車に親子がひかれて亡くなった。」

「普段は真面目な子が親を殺害した。」

これらの凄惨な事件は私の心をどん底に陥れます。

 

誰が悪いのか。原因は何だったのか。どうして防げなかったのか。

これら様々な思いがこみ上げてきて、眠れなくなる事もあります。

たとえ自分からは遠いどこかの街で起こった事件だとしても、事実として行き場のない大きな怒りや悲しみを与えます。

 

このようなニュースに対してネット上のコメントでは、

「犯人をもう二度と社会に出られないように厳しく罰して欲しい。」

「犯罪を事前に防ぐような新しい法律をつくるべきだ。」

という意見が多く散見されます。

 

私も彼らの言っていることはもっともだと思いますが、問題の本質はもっと別なところにあるような気がします。

果たして厳しく罰することや、法律をつくることが被害者の本当の救いになるのか。

願わくば自分の身内にだけは起こらないで欲しい。と思わずにはいられません。

 

しかし、このような事がたびたび起きるような社会であっても、私たちはその社会の中で生きていかなければなりません。

行き場のない怒りがこみ上げてきたとしても、必ず明日はやってきます。

もし、明日死ぬかも知れないと考えると、今できることをやるしかありません。

 

残酷な社会であっても、自分の愛する家族や仲間にたっぷりと愛情をかけてあげようと思うのです。

仕事でケアをする患者さんにも自分が出来ることを一生懸命してあげたいと思います。

 

看護観とは、語るものではなく積み上げていくもの

冒頭にも言いましたが、看護師は私の天職です。

私が一生懸命に仕事している姿を見ている患者さんからは時々非常に嬉しい言葉をいただきます。

「他の看護師はやってくれないのに、まおつんさん(私)はこんなに尽くしてくれている。」

「まおつんさんに絶対に来て欲しい。」

「まおつんさんが来る日がいつも楽しみ。」

もちろん、お世辞が上手な患者さんもいますが、こういった言葉が私にとって最大のモチベーション向上のお薬です。

看護師が天職だと心から思えるのは、私自身の努力よりも、患者さんにここまで育ててもらったという気持ちが強いからです。

 

学生の頃の実習の時や、就職の面接試験では「あなたの看護論はなんですか?」とよく聞かれると思います。

当時の私であれば、いかに面接官にウケの良いことを言えるかに苦慮していたはずです。

しかし、「看護観」とは言葉で表現するものではなく、積み上げながら築いていくものだと今の私は確信しています。

 

確かに、理念や思想を言葉で伝えることはとても重要です。

ちなみに、就職の面接ではほぼ確実に看護観について聞かれます。

病院や訪問看護ステーション側が、これから一緒に働く看護師の価値観を知っておきたいと考えるのは当然のことです。

ただ、本当の看護観とは決して耳障りの良い言葉だけではなく、もっと身近でシンプルなことかも知れません。

 

「患者さんの気持ちに寄り添った看護がしたい。」

とてもシンプルで単純でありきたりな言葉だけど、今の私にはこれがピッタリとくる看護観です。

 

さいごに

今回は、「命」という話題を中心に私の看護観についてお話しました。

 

理想論かも知れませんが、私が誰かに優しくしたことで、その誰かは他の誰かに優しくなれる。

それが回り回ってこの世界が少しだけ良くなる。

自分に返ってこないかも知れないけどそれでも良いと思っています。

 

どうせいつかは尽きる命ならば、いま精一杯自分に出来ることをしたいですよね。

そして、人の生死にもっとも近い存在の看護師であるからこそ、患者さんにはいつも安心してケアを受けていただきたいと思っています。

 

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